(論壇時評)新型肺炎 専門知と市民感情の調停を ジャーナリスト・津田大介
ソーシャルメディアは、現代人にとって貴重な情報入手手段であると同時に、人々の「共感」が数値で可視化される特徴を持つ。いわば「知性」と「感情」両方を兼ね備えた媒体であるが、近年は運営業者が後者の特徴を過剰化する方向に舵(かじ)を切り、感情が知性を優越する状況が日常化した。トランプ米大統領やロシア、あるいはアジア各国の指導者のように後者の特徴を悪用し、民主主義を破壊する為政者も後を絶たない
松本〔卓也〕はその理由を、論者が“当事者”として成長できる環境に置かれているかどうかが鍵であるとした。松本によれば「彼らには自分たちの力を高めていくように機能するグループがなく、数はたくさんいてネット上でつるんでいるようには見える」ものの、現実には自分をエンパワーメント(力を高める)方向に機能するグループに所属できておらず、「グループの力によってエンパワーメントに成功しているように見える他者やマイノリティを叩くことが語りの中心になってしまう」という。これは内山の「近代社会は、バラバラな個人をつくりだした。この個人にとっては、大事なものは自分だけであり、その自分を評価しようとしない社会への不満が蓄積されていく。この感情を土台において判断するとき、他者に対する攻撃的な感情が広がっていく」という認識〈3〉にも近い。内山、原田、松本の分析を世界中で起きている専門家と市民の対立に敷衍(ふえん)すれば、つながりを失い不安に駆られた市民にとって、専門家は所属グループの力でエンパワーメントに成功した「恵まれた人たち」に見えるということだ。
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「専門家=知性」と「市民=感情」のもつれを調停しない限り専門知への軽視は続く。藤井聡は「ナショナリズムを適切な形で回復し、国民の分断を回避し、国民国家の社会学的な凝集性、統合性というものを造成していくことこそが、今、求められている」と主張するが〈4〉、これはグループの力によってエンパワーメントする体験を市民に与えること――松本の関心と通底するようにも思える。
2020/3/5